復縁祈願の法華経寺住職神宮司龍峰・宮崎県都城市高野町 不倫
田中英光を偲ぶ会
『不朽の名作 オリンポスの果実の魅力』
講師 復縁祈願の法華経寺住職神宮司龍峰
恋愛小説の最高傑作の作家田中英光を語ろう。
とき 令和元年11月03日日曜日午後5時
場所 霧島山法華経寺
会費 5000円 夕食・ビール・ワイン・焼酎
主催 田中英光を偲ぶ会
後援 全国うつ病友の会
温泉 無料・タオル無料貸し出し
駐車場有り
詳細は順次追記致します。
お泊まり希望の方はお申し込み下さい。
担当・井伊直子
田中英光 太宰治との出会い
就職した年に同人雑誌『非望』(1935年3月~6月、第6号で廃刊)の同人となる。『非望』第5号(1935年8月)に起稿した「空吹く風」が太宰治の目に止まる。太宰は京城に住む田中宛てに「君の小説を読んで、泣いた男がある。曾てなきことである」と書いた葉書を投函。以後、田中の師事が始まる。
1937年(昭和12年)2月、小島喜代と結婚。朝鮮神宮で挙式。
1939年(昭和14年)2月頃、中国山西省臨晋の野戦病院に入院していた間に書いた小説「鍋鶴」を太宰宛てに送稿し、発表誌紹介を依頼する。「鍋鶴」は太宰の妻によって清書され『若草』1939年5月号に掲載された。
1940年(昭和15年)3月、臨時本社勤務となり、東京に戻る。3月22、23日頃、三鷹に住む太宰を訪問、初めての対面となった。このとき田中は「われは海の子」と「杏の実」を持参している。太宰は中島孤島訳の「ギリシヤ神話」に拠って「杏の実」を「オリンポスの果実」と改題させ、『文學界』に斡旋する。同誌1940年9月号に『オリンポスの果実』掲載。同年12月、同作品は第7回池谷信三郎賞を受賞する。また高山書院から太宰の序文をつけて出版される。
1944年(昭和19年)、京城から静岡県に引き揚げる。
1947年(昭和22年)、妻子を静岡に残したまま、東京都新宿区にて同棲生活を始める。
1948年(昭和23年)6月13日、太宰が自殺。大きな衝撃を受けた英光は睡眠薬中毒と化す。
1949年(昭和24年)5月、同棲相手を薬物中毒による妄想のため刺す。同年11月3日午後5時頃、三鷹市の禅林寺の太宰の墓前で、睡眠薬アドルム300錠と焼酎1升を飲んだ上で安全カミソリで左手首を切って自殺を図る。知らせを受けて駆け付けた新潮社の編集者野平健一により、同市上連雀の病院に運ばれ、処置を受けたが午後9時40分に死去した。36歳没。