復縁祈願の法華経寺住職神宮司龍峰先生 爆笑歌謡漫談 ギター漫談
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神宮司龍峰先生が30曲歌います
笑いの90分
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神宮司龍峰先生の爆笑歌謡漫談90分
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うつ病・パニック障害・統合失調症
心の暗い人・心の病の人には最適の爆笑歌謡漫談
歌謡曲のご案内
『東京ラプソディ』(とうきょうラプソディ)は、1936年(昭和11年)6月にテイチクから藤山一郎の歌唱によって発売された昭和歌謡である。作詞は門田ゆたか、作曲は古賀政男。昭和モダン末期の東京を歌ったフォックストロット調の作品で、35万枚を売り上げヒットした。藤山主演による同名の映画も制作されている。
加藤隼戦闘隊(陸軍飛行第64戦隊歌)【陸軍軍歌】
作詞:田中林平
作曲:朝日六郎
『あゝ紅の血は燃ゆる』 (ああくれないのちはもゆる)は、1944年(昭和19年)9月に日蓄レコードから発売された戦時歌。
作詞は野村俊夫、作曲は明本京静、編曲は奥山貞吉。歌は酒井弘、安西愛子。 副題には、「学徒動員の歌」とある。
1944年(昭和19年)3月、勤労学徒動員令が発令され、従来4ヶ月の勤労動員であったものを1年間を通じて行われるようになり、そのためにこの歌を制定した。女子の女子挺身勤労令には、「輝く黒髪」という歌を制定している。
国民合唱で、1944年(昭和19年)6月26日にから放送合唱団によって流された。
『高校三年生』 作詞:丘灯至夫 作曲:遠藤実 編曲:福田正 歌:舟木一夫
『チャンチキおけさ』 ♪三波春夫 歌唱:三波春夫 (1957) 作詞::門井八郎
『あゝ上野駅』(ああうえのえき)は、1964年(昭和39年)5月に発表された日本のポピュラーソング(演歌)。あるいは同曲を収録したシングル。 作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・井沢八郎。
『潮来笠』(いたこがさ)は、1960年7月5日に発売された橋幸夫のデビューシングル
橋幸夫のデビュー曲であり、股旅曲の代表的な作品である。累計で約120万枚を売り上げた。作詞、作曲は橋の恩師にあたる佐伯孝夫と吉田正。
『かえり船』(昭和21年)田端 義夫[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
『若鷲の歌』(予科練の歌)【戦時歌謡】作詞:西條八十 作曲:古関裕而
『大阪ラプソディー』(おおさかラプソディー)は、1976年2月25日にリリースされた漫才コンビ・海原千里・万里のシングル曲である。作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、編曲:藤田はじめ
『君といつまでも 』(きみといつまでも) は、加山雄三の5枚目のシングル。1965年12月5日発売。収録は毎日放送千里丘放送センターで行われた。編曲(アレンジ)が気に入った加山が、嬉しさのあまり「いやあ、幸せだなぁ」と呟いた。そのことから、後に流行語となる台詞が間奏に収録されることとなった。300万枚を超える大ヒットになり、1966年の第8回日本レコード大賞の特別賞となった。
『出征兵士を送る歌』(しゅっせいへいしをおくるうた)は、日本の軍歌(戦時歌謡)。作詞・生田大三郎、作曲・林伊佐緒。発売は1939年(昭和14年)10月。日中戦争(支那事変)勃発以来、マスコミは積極的に軍歌(戦時歌謡・軍国歌謡)を公募して製作していたが、これは戦時下の戦意高揚のほかにも媒体の拡販につながるという利点があった。しかしそうした動きは当初は新聞社だけであった。その中で初めて大手出版社が製作した軍歌がこの『出征兵士を送る歌』である。
1939年、大日本雄辯會講談社(現・講談社)は陸軍省と提携して9大雑誌で宣伝し、歌詞と曲は読者から公募した。この公募には128,592件もの投稿があり、一等当選歌詞は神戸市の一読者・生田大三郎のものであった[2]。一等当選曲の作曲者・林伊佐緒は、当時、大日本雄辯會講談社系列のキングレコード専属のプロ歌手であったが一般応募だった。最初のレコードはキングレコードの人気歌手(林伊佐緒、樋口静雄、児玉好雄、三門順子、井口小夜子、横山郁子、永田絃次郎、長門美保)を総動員して発表された。林は賞金1500圓を手に入れた。
『ここに幸あり』(昭和31年)大津美子 高橋掬太郎 作詞、飯田 三郎 作曲
愛知県豊橋市出身。私立桜ヶ丘高校卒業。
1953年、キングレコード専属作曲家だった渡久地政信に弟子入り。この頃は、毎週土曜日に夜行電車に乗り上京し、翌日の昼のレッスンを受け帰郷するという生活を続けていた。1955年7月、キングレコードから「千鳥のブルース」でデビュー。デビュー2ヵ月後の9月に発売した「東京アンナ」が大ヒット。
「東京アンナ」がヒットしている最中、恩師渡久地政信がビクターに移籍した。これにより落胆する大津にキング文芸部長だった町尻量光は、同社作曲家だった飯田三郎を紹介し、以後、飯田が大津を指導することになる。
1956年、師である飯田が作曲し高橋掬太郎が作詞した同名映画の主題歌「ここに幸あり」が空前の大ヒット。とりわけハワイ、ブラジルなどの多くの日系人の間で当時から今日に至るまで愛唱されており、大津も公演に出向いた。
『青年日本の歌』(せいねんにほんのうた)は、1930年代に作られた歌である。
作者は日本海軍の中尉、後の五・一五事件に関与した三上卓である。昭和維新の歌とも呼ばれる。歌詞の内容には「国家改造」、政界の元老・権臣や財閥などの排除が主張されて、濃厚な軍国主義の色彩を帯びているものの、当時の日本社会の経済や貧富の格差の状況をある程度反映している。発表以来、日本中に人気が出てきたが、1936年禁止となった。原因は歌詞が暴力を煽って、昭和天皇の不満を招いたとされる。
『友よ』(ともよ)は、日本のシンガーソングライターである岡林信康の楽曲。作詞は岡林と鈴木孝雄の連名、作曲は岡林となっている。
1968年9月5日にビクターレコードからリリースされた岡林のデビュー・シングル「山谷ブルース」のB面に収録され、1969年にURCレコードからリリースされたデビュー・アルバム『わたしを断罪せよ』にも収録された。シングル・バージョンは、高石友也、フォーク・キャンパーズも演奏にクレジットされている。
『人生一路』歌:美空ひばり 作詞:石本 美由起 作曲:かとう 哲也
PC担当・井伊直子