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旧帝国海軍大将井上成美のピアノ スタインウエイ 

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スタインウェイの歴史と魅力
コンサートを開くピアニストの10人に9人はスタインウェイを選ぶというほど、スタインウェイは人気のピアノです。
なぜスタインウェイがここまで人気を博しているのでしょうか。
STEINWAY & SONS
スタインウェイ・グランドピアノ第1号の完成
スタインウェイ&サンズの創設者ハインリッヒ・シュタインヴェーグは、1836年、ドイツ・ゼーセンの自宅台所で最初のグランドピアノとなる「キッチン・ピアノ」を完成させました。
ハインリッヒはその後、ドイツで482台のピアノを作りますが、ピアノ事業と家族の将来を考え、息子たちとともにアメリカに渡ります。ただ一人、ドイツに残った長男テオドールは、ブラウンシュヴァイクでピアノ工場を成功させています。
当時ヨーロッパではグランドピアノの性能にしのぎを削っていました。この影響は海を越えてスクエアピアノ全盛のアメリカにも伝わりました。スタインウェイの息子たちもまた、グランドピアノの耐久性と性能の向上に精魂を傾けていました。
長男テオドールはアメリカに渡ったのちもドイツとアメリカを往復して、ドイツの最先端の音響工学を仕入れながら、グランドピアノの改良に努めました。
よく響き、澄み渡る、最高の音色のグランドピアノ
スタインウェイ・グランドピアノは、初期の最上のコンサートピアノの完成に満足することなく、現代に至るまで次々に改良を重ね、特許を取得している点が他のグランドピアノと異なる点です。
その設計思想は下記のポイントに要約されます。
強固な構造を持つこと
楽器全体がよく響くこと
高音域は繊細でクリアな音色、しかも豊かで伸びが良いこと
低音・中音域は豊かな音色でかつフォルテッシモ(最大の音)とピアニッシモ(最小の音)の幅、すなわちダイナミックレンジを広げること
大規模なコンサート会場で、どのような小さな音を弾こうとも、会場の端までその美しい音色がはっきりとメロディを奏でることが必要であり、反対にどのような大音量で弾こうとも、その音色は豊かで美しく心に響くものでなくてはなりません。「神々の楽器」と呼ばれるもうひとつの理由がここにあります。
徹底した「木」へのこだわりが最上のグランドピアノに結実
その他の違いは、スタインウェイのグランドピアノがすべて手作りだという点です。
創業者のハインリッヒは、祖父は炭焼き職人、父は林務官という木に造詣の深い家で生まれ育ちました。このため、スタインウェイは伝統的に木材に対するこだわりが強く、グランドピアノの命である響板やリムなどの場所によって、適材適所の木材を選ぶ鑑識眼が脈々と受け継がれています。
もっとも大切な響板には、世界でもっとも寿命が長い木(200年~500年)と言われる、北米原産のスプルース(マツ科トウヒ目)が使われます。その買い付けは100年以上同じ会社から続けていますが、買い付けた木材から実際に使える品質のものは半分しかないといいます。また、響板に使われる板は、すべてまっすぐに木目が通ったものだけが使用されます。
グランドピアノの外側を囲む「リム」と呼ぶ板にもこだわりがあります。リムの美しい曲線は15枚から18枚の薄い板を貼り合わせた1枚の合板で作られています。その合板を一挙にグランドピアノの形に成型するという技法は、スタインウェイが開発したものです。
他社のグランドピアノはリムを箱と考え、響板とリムの間に隙間をあけていますが、スタインウェイ・グランドピアノは完成したリムに響板が隙間なく貼り付けられ、ピアノすべての部材を音響体と考え、設計されています。これもスタインウェイ・グランドピアノだけの特徴です。
スタインウェイ・グランドピアノの足を軽く叩いてみましょう。コーンと軽い音が響きます。ピアノの足までもが音響に資する楽器の一部なのです。

「最後の海軍大将」の愛したピアノと晩年
戦前の海軍時代から戦後の横須賀長井での隠棲生活に至るまでの思想と行動、家庭・私生活等に関しては、1982年出版の井上成美伝記刊行会「井上成美」に詳しく書かれている。
自らをラジカル・リベラリストと称する、このような人が居たこと、しかも枢要なポストに就いていたということに、驚きと、ある意味で何か救いを見たような気がしたものである。そして、昔(高校生の頃)似たような感想を持った人物がいたことを思い出した。井上と同世代で、戦争中最後までファシズム批判の旗を降ろすことのなかった唯一の知識人、戦後東京大学総長になる矢内原忠雄である(井上が4歳年長)。この二人は、1945年8月15日を挟んで、正反対の境遇になるのであるが、人間的には似た面があるのではないかと思う。
井上のような言動を一般人がしていたら、たちどころに憲兵隊か特高警察に捕まり、酷い目にあったに違いない。現に、三国同盟(1940年9月締結)に反対する米内(海軍大臣)山本(次官)井上(軍務局長)の三名は、右翼に狙われていたし、反対派の海軍軍人全てに私服憲兵の尾行がついていたという(1937年暮れには矢内原が東大教授を辞任するを余儀なくされている)。戦争末期に次官を務めていた井上は、米内大臣と共に、陸軍によるテロの標的になる危険は十分あったのである。
井上のようなタイプの人物は、現代の我が国を代表するような企業社会においても、まず出世することは難しかろう。戦前の帝国海軍は、当時の日本社会としては勿論、その後の日本社会をみても、極めて異色のリベラルな文化をもつ側面があったと言えるのではないか。
井上が敗戦直後から住んだ三浦半島長井の旧井上邸が記念館になっているようなので、是非訪れてみたいと思ってきたものの、なかなか機会がなかった。最近になり、2011 年3月の東日本大震災で被害を受け、記念館は閉鎖していると知った。今のうちに行っておこうと思い立ち、インターネット検索により住所を知ることができたので出かけることにした。
三浦半島の相当部分を占める横須賀市の相模湾側最南端に荒崎海岸という景勝地がある。井上邸は、その断崖上に、結核に冒されていた井上の妻喜久代夫人の療養所代わりに計画されたものである。ただ、夫人はその完成(1934年)を見ることなく、療養中の鎌倉小町の家で亡くなった(1932年、享年36才)。その結果、井上が海軍を去り、この家に隠棲する1945年までは、空き家のことが多かった。横須賀市長井6丁目付近の地図を拡大すると、「リゾート・コンベンション企画」と表示されている建物が旧井上邸である。
東京方面からの旧井上邸への順路としては、横浜横須賀道路を南下~「衣笠IC」で三浦縦貫道路へ入り~終点の「林」から国道134号(逗子・鎌倉方面から来る)を南下~「ソレイユの丘」を右折~「ソレイユの丘」を通り過ぎ~左側の「ラーメンよしべ」(看板なく分かり難い)の先、「伸栄建工」手前細い農道を左に入ると、行き止まりが旧井上邸である。
軍人恩給が復活し(1953年)、井上の生活はそれまでよりは楽になったものの、なお生活不如意の状態であることから、長井の土地建物を売却し、アパートにでも移りたい、との話を聞いた海軍兵学校校長時代の教官小田切政徳から、兵学校73期の深田秀明にその仲介方依頼があった。しかしながら、不動産としての市場価値が見込めるような物件ではないことから不調に終わっていた(1963年頃)。代案としての深田の経営する会社の顧問となり、顧問料を支払うという申し出を、当初は断ったものの、井上は渋々受け入れていたが、井上としてはそれが何としても苦痛であり、顧問料の見返りに土地建物を深田に無償譲渡するという意向が示され、1969年以降深田が経営する会社の所有になったものである。
1975年に井上が、後妻の富士子夫人が1977年に亡くなるまで、二人はこの建物の「管理人」として 深田の会社から管理料を受け取るという形になっていた(全て預金に振り込まれたまま、手を付けず、富士子のために残されていた)。
・建物は、当初「暖炉の煙突が二つある、赤屋根の洋館」であったが、その後現在の記念館部分を残して大幅な改築が行われた。

神宮司龍峰の過去の言行録
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